命と感情と答え
2005年12月4日 俺の命には価値がない。それだけは言い切れる。愛する人が出来るまで僕は僕の命に価値を見出すことはないだろう。それこそドナー登録でもしていれば話は別だろうが。
でも俺の感情には価値があると思う。怒ったり、泣いたり、笑ったり、苦しんだり、悲しんだり。きっとそれはいつか何かの形になって価値を生み出すと想う。優しくなれるのも自分が悲しいって事を知ってるからなれるように。
でも、命があるから感情もあるという視点からみれば命も大事なのだろう。でも、時には自分の命を軽く見るからこそ、そこに生きる価値を見出すことだってある。軽い命なら、せめて地球の飢餓を少しでも減らすように募金してから死ねよ、と。
もし、俺一人がそう想い、また俺のように生きてる人が一人、また一人と増えれば100%は無理でも10%は飢餓が減るかもしれない。3秒で1人の人が死んでいるという現実をもしかしたら4秒で1人で死んでいるって言うことになるための欠片になることだって出来るかもしれない。
ただの偽善者思考って想う人もいるだろう。でも前提はあくまでも自分を命を軽く見た場合。死ぬくらいなら、それくらいの事に自分の命を使ってみろよ、と。そんな感じである。生きてることを素直に喜び、悩むこともあるだろうけど、生きてることに疑問をもったことをない人から見ると変な思考かもしれない。正直言えば、俺もそんな風に想える人間になりたかったって想う時もある。
そう想ってからは気付けば自分の事は後回しにすることばっかりになって、でも根っからの善人でもないから時には自分を優先したい時だってあって、それに気付くのは独りになって自分の血を見てから。誰かと居ると自分の血すら気にならないほど気を使うようになっていた。それが俺には幸せという意味なのかもしれない。自分の事なんて気にならないほど何かに没頭しているのだから。
愛する人が居れば、俺はとても幸せになれると想う。常に相手の笑顔という形で報われるのだから。まぁしっかり笑顔を得るにもそれなりの苦労もあり悩みもあると思うけど。それは俺だけじゃなく人間として生まれた以上其の幸せがあると思う。それが生きる目的になる人がほとんどだと想う。どんな国でも愛する人のために生きてる人ばかりなのだから。
なら俺はなんで生きている?そう言われたら飢餓のために、そこまで想わなくても、生んでくれた家族のため、そう適当に理由をつけて生きればいい。いつかは愛する人が出来るのかもしれないのだから。
死んでしまえば全ての可能性は消える。願わなければ願いが叶うことはない。全ての可能性を消して死にたいのなら止めれないけど、飢餓で死んでいく子供達の前で<僕は今から自殺する>って言いきれるほどの覚悟があったら死んでもいいと想うけど、死ぬ覚悟をもたずに死ぬとはやるべき事でもなく言うべきことでもない。
俺も一回は覚悟出来ましたけど、動くことすら疑問に想っていたのでそのままずっと倒れていましたが、もし行動力だけ残っていたらもう死んでいたでしょう。そんな感じで自分で自分を傷つける事も一度怪我したら血しょう板がなくて血が止まらないって言う人の前で出来る覚悟があるなら俺はしてもいいと想うし俺もするでしょう。
そう考えれば俺は今ココにいるだけで幸せと呼べるのかもしれない。それなりに持病もあるけど、ご飯が食べれて暖かい布団で寝れて友達が居て、足りない幸せもあるけれど、其の足りないものが大きくて寂しいって想う時もあるけれど、それでも幸せって呼べる時代と国に生きているっていえるのかもしれない。
ただ、幸せが良いこととは限らなくて幸せって何?って疑問すらもつこともあるけれど・・・いいさ。一杯悩もう。一杯苦しもう。一杯傷つこう。傷つき傷つけあえば大人になれるって人は言うけど、絶対傷つくだけの運の悪い奴も居る。捻くれてしまうのも居る。生きる意味すら見えなくなる人だって居る。そんなの分かりきってるから。
どんなことに対しても答えを出すには俺はまだ若い。それが答えと今は想って明日を生きる。独りで居ることの答えを。その意味を。生きる事の意味を。
でも、たぶん、一言で言えば愛を知るために人は苦しむんだろうね。それを忘れて苦しみに負けて愛が要らないって想って捻くれる人も一杯だけど忘れちゃいけない求めてる幸せ。
そんなのを歌にしていきたい。
でも俺の感情には価値があると思う。怒ったり、泣いたり、笑ったり、苦しんだり、悲しんだり。きっとそれはいつか何かの形になって価値を生み出すと想う。優しくなれるのも自分が悲しいって事を知ってるからなれるように。
でも、命があるから感情もあるという視点からみれば命も大事なのだろう。でも、時には自分の命を軽く見るからこそ、そこに生きる価値を見出すことだってある。軽い命なら、せめて地球の飢餓を少しでも減らすように募金してから死ねよ、と。
もし、俺一人がそう想い、また俺のように生きてる人が一人、また一人と増えれば100%は無理でも10%は飢餓が減るかもしれない。3秒で1人の人が死んでいるという現実をもしかしたら4秒で1人で死んでいるって言うことになるための欠片になることだって出来るかもしれない。
ただの偽善者思考って想う人もいるだろう。でも前提はあくまでも自分を命を軽く見た場合。死ぬくらいなら、それくらいの事に自分の命を使ってみろよ、と。そんな感じである。生きてることを素直に喜び、悩むこともあるだろうけど、生きてることに疑問をもったことをない人から見ると変な思考かもしれない。正直言えば、俺もそんな風に想える人間になりたかったって想う時もある。
そう想ってからは気付けば自分の事は後回しにすることばっかりになって、でも根っからの善人でもないから時には自分を優先したい時だってあって、それに気付くのは独りになって自分の血を見てから。誰かと居ると自分の血すら気にならないほど気を使うようになっていた。それが俺には幸せという意味なのかもしれない。自分の事なんて気にならないほど何かに没頭しているのだから。
愛する人が居れば、俺はとても幸せになれると想う。常に相手の笑顔という形で報われるのだから。まぁしっかり笑顔を得るにもそれなりの苦労もあり悩みもあると思うけど。それは俺だけじゃなく人間として生まれた以上其の幸せがあると思う。それが生きる目的になる人がほとんどだと想う。どんな国でも愛する人のために生きてる人ばかりなのだから。
なら俺はなんで生きている?そう言われたら飢餓のために、そこまで想わなくても、生んでくれた家族のため、そう適当に理由をつけて生きればいい。いつかは愛する人が出来るのかもしれないのだから。
死んでしまえば全ての可能性は消える。願わなければ願いが叶うことはない。全ての可能性を消して死にたいのなら止めれないけど、飢餓で死んでいく子供達の前で<僕は今から自殺する>って言いきれるほどの覚悟があったら死んでもいいと想うけど、死ぬ覚悟をもたずに死ぬとはやるべき事でもなく言うべきことでもない。
俺も一回は覚悟出来ましたけど、動くことすら疑問に想っていたのでそのままずっと倒れていましたが、もし行動力だけ残っていたらもう死んでいたでしょう。そんな感じで自分で自分を傷つける事も一度怪我したら血しょう板がなくて血が止まらないって言う人の前で出来る覚悟があるなら俺はしてもいいと想うし俺もするでしょう。
そう考えれば俺は今ココにいるだけで幸せと呼べるのかもしれない。それなりに持病もあるけど、ご飯が食べれて暖かい布団で寝れて友達が居て、足りない幸せもあるけれど、其の足りないものが大きくて寂しいって想う時もあるけれど、それでも幸せって呼べる時代と国に生きているっていえるのかもしれない。
ただ、幸せが良いこととは限らなくて幸せって何?って疑問すらもつこともあるけれど・・・いいさ。一杯悩もう。一杯苦しもう。一杯傷つこう。傷つき傷つけあえば大人になれるって人は言うけど、絶対傷つくだけの運の悪い奴も居る。捻くれてしまうのも居る。生きる意味すら見えなくなる人だって居る。そんなの分かりきってるから。
どんなことに対しても答えを出すには俺はまだ若い。それが答えと今は想って明日を生きる。独りで居ることの答えを。その意味を。生きる事の意味を。
でも、たぶん、一言で言えば愛を知るために人は苦しむんだろうね。それを忘れて苦しみに負けて愛が要らないって想って捻くれる人も一杯だけど忘れちゃいけない求めてる幸せ。
そんなのを歌にしていきたい。
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